――まず、「何を勉強しているのか」を分けて考える
「国語の勉強の仕方が分からない」「勉強しても成績が伸びない」。
昔から、本当によく聞く話である。
もちろん、現代文は一朝一夕に点数が上がる科目ではない。だったら短期的には英単語を覚えたり、数学の典型問題を一つ増やしたりした方が効率がいい、と思う人もいるだろう。
だがここで、「現代文は勉強すれば伸びる科目だ」と主張したい。
現代文が勉強しづらいのには理由がある。そして、その理由のかなりの部分は、現代文という科目の中に性質の違うものが詰め込まれていることにある。
まずはそこを分けて考えるところから始めよう。
現代文は、かなり欲張った科目である
現代文には評論も小説も随筆も詩もある。
評論では論理を追う。何と何を比べ、具体例が何を説明し、筆者がどんな問いにどんな答えを出したのかを考える。
一方、小説では人物の心情や関係、出来事の意味を読む。書かれていない感情を勝手に想像するのではなく、人物が何を見て、何を聞き、それによってどう動いたのかを追っていく。
現代文は、「理」と「情」の両方を扱う欲張った科目である。
ただし、「評論=理、小説=情」ときれいに分かれるわけではない。小説を読むにも、因果や情報の出され方を追う論理性が要る。評論でも、その文章が人間や社会をどう捉え直そうとしているのかまで見ることになるが、その対象となる「人間」や「社会」は「情」なしには成立していない。
現代文では、論理的に読むことと、感情を慮ることとを両方やる。
しかも最近は、複数資料や実用的な文章、図表まで「国語」の中に入ってくる。
これだけ違うものを一つの教科名で括っているのだから、「国語力をつけよう」とだけ言われても、何を伸ばせばいいのか分かりにくいのは当然だと思う。
同じ文章でも、先生によって授業がまるで違う
もう一つ、現代文を分かりにくくしている理由がある。
教える側である。
国語の授業ほど、先生によって中身が違う科目も珍しい。
文章を一文ずつ丁寧に説明する先生もいる。文学作品の面白さを語る先生もいる。背景となる思想や歴史をかなり深く扱う先生もいる。設問の解き方に重点を置く先生もいる。
それぞれに意味はある。
ただ、ここでは受験に特化して、解説をしていきたい。その際、重視するのは、「教材を教えるのではなく、教材で教える」ということである。
文章の内容を正しく説明できれば、それだけで授業が完成するわけではない。
同じ文章が同じ大学で出題されることはない。ならば、その文章を理解できたことで満足してしまっては、次につなげることはできない。
【一つの文章には、いろいろなものが入っている。
文章全体を支えている考えもある。
生徒が読めたつもりになりやすい難所もある。
入試問題を作る人が、理解の差が出ると見て設問を置いた箇所もある。
その文章で身につければ、別の文章でも使える読み方もある。
そして何より、その文章を読むことで、それまでとは少し違う世界の見方を得られることもある。
その全部を一時間の授業で同じ重さで扱うことはできない。
もう少しややこしいのは、「難しいところ」「大事なところ」「入試で差がつくところ」が、必ずしも同じではないことである。
筆者が本当に言いたい核心は、丁寧に説明されていて案外読みやすいことがある。逆に、筆者が本来想定していた読者には当然すぎて省略された前提が、高校生には見えず、そこが難所になることもある。さらに出題者は、その中から受験生の理解の差が出る場所を選んで問題にする。
だから「難しい一文を全部詳しく説明する」「設問になった場所だけ教える」のどちらでも足りない。
何が文章の中心なのか。何が読みにくさを生んでいるのか。何を問う価値があるのか。
ここも分けて考えなければならない。
教師は選ばなければならない。
「この文章で、一番残したいものは何か」。
ここを決める仕事は、文章を正確に読む仕事とは少し違う。
この区別は重要である。】
現代文は「現代」を読む科目でもある
特に評論では、新しい考え方が次々に出てくる。
近代、自由、身体、言語、資本主義、メディア、科学、AI。
同じ言葉を扱っていても、文章が書かれた時代によって問題の立て方は変わる。以前なら当然だった見方を疑う文章もあれば、いったん批判された考え方を別の形で拾い直す文章もある。
現代文は、「現代をつまびらかにする科目」である。
文章を読んで、「筆者の主張はこれです」とまとめて終わるのではもったいない。
その文章を読んだことで、それまで当たり前だと思っていたことの見え方が少し変わる。
「ああ、こういう見方もできるのか」。
そこまで行って、初めてその文章を教材にした価値が出る。
これは入試でも同じである。
良い入試問題に使われている文章は、単に問題を作りやすい文章ではない。大学に入ってから学ぶ生徒に、知っていてほしいこと、考えてほしいこと、持っていてほしい視点がある。その文章を理解できること自体に価値がある。
だから、現代文の勉強は、単なる「受験テクニック」にも、単なる「読書」にも収まらない。
さらに、入試ではもう一段階ある。
文章を読むことと、問題に答えることも同じではない。
本文を自然に読めば少し幅のある解釈が残るのに、設問や選択肢を見ると、出題者がそのうち一つを得点上の答えとして採っていることもある。そこで必要なのは、本文を出題者の都合に合わせてねじ曲げることではない。本文としてどう読めるかと、この問題では何を答えさせようとしているかを分けて持つことである。
この区別がないと、「文章は分かったのに問題を間違える」「模範解答を読んでも納得できない」ということが起こる。
生徒から見れば、なおさら何をすればいいか分からない
科目の中身がこれだけ広く、先生によって授業の焦点も違う。
そうなると、生徒が
「結局、国語って何を勉強すればいいの?」
となるのも無理はない。
「本をたくさん読んできた人ができる科目」
「センスのある人が解ける科目」
「勉強しても点数が安定しない科目」
そんな印象が残る。
ここを曖昧なままにしてはいけない。
もともと国語が得意な生徒が、感覚のまま読んで高得点を取る。その読みを褒めるだけなら、授業はあまり要らない。
むしろ、国語がそれほど得意ではない生徒が、
「今、自分は何ができていないのか」
「何を練習すればいいのか」
「なぜこの答えになるのか」
を自分で分かるようにしたい。
そのためには、現代文を一つの曖昧な「国語力」として扱わない方がいい。
分ける必要がある。
「分かる」ために、まず「分ける」
現代文の学習は、まず大きく三つに分けられる。
知識。読解力。解法。
どんなテーマの文章が来ても、読むための最低限の知識があること。
難しい文章でも、書かれていることを読み解けること。
そして入試なら、出題者が何を答えさせようとしているかを読み、過不足なく答えられること。
この三つは関係しているが、同じ力ではない。
だから、問題を一問解いたからといって、三つが同じように鍛えられるわけでもない。
ここを分けるだけで、現代文の勉強はかなり見通しがよくなる。
「分かる」という言葉は、「分ける」と同じところから来ている。
何となく一つに見えているものを、きちんと分ける。
現代文の勉強も、まずそこから始めればいい。
次は、この知識・読解力・解法の三本柱を、もう少し具体的に分けてみたい。
この柱では、出題者が一つの問題を作り上げるまでに何を考えているかを、順を追って見ていく。最初は、本文を選ぶところから。問題用紙に載っている文章は、たまたまそこにあるのではない。 まず、大きな本屋に半日こもる 問題を作るって、まず何から始[…]
前回、現代文が勉強しづらい理由について、「いろいろなものが一つの『国語力』としてまとめられているからだ」と書いた。では、実際に何を分ければよいのか。 三つの柱 現代文に詰め込みすぎてフワフワしているのは分かったけど、じゃあどうや[…]
入試に出る 読解のための現代文キーワード700(旺文社・大学JUKEN新書)
過去10年の大学入試を分析し、読解に欠かせない700語を20章に整理。頻出度を星の数で示し、章ごとに確認テストを置いています。

